2024年8月 小林 米幸さん
(医療法人社団小林国際クリニック理事長・名誉院長、特定非営利活動法人AMDA国際医療情報センター理事長)
KEIOが好き、いつも心の中にある我が母校
─ 小林先生は外国人医療と出会ったきっかけは何でしょうか? そして、外国人医療に積極的に関わっていきたいとお考えになった理由を教えていただけますでしょうか?
小林さん: 慶應義塾大学医学部を卒業して8年目に大和市立病院に赴任したころ、当時の日本政府は約1万人のインドシナ難民を定住目的で日本に入国許可しました。日本の言葉や文化や習慣を勉強して、職業訓練を受けて、日本社会に旅立つという定住促進センターが日本国内に3つありまして、その内の1つが私が赴任した大和市内にありました。難民が定住促進センターに来た時に日本側で健康診断をする医師が必要でしたが、内科医の希望者がいなかったために外科医の私が手を挙げてその医師になりました。定住促進センターには通訳がいて、通訳付きで私が診察していました。この患者は整形外科に、あの患者は内科にというふうに振り分けをしなければいけませんでした。そして、1年間の定住促進センターでのサポートを経て日本社会に出た難民たちは、日本語もまだ不自由なので、具合が悪くなった時に医療機関にかかると、言葉の問題から診察を断られるケースが多かったです。私はこの状況を見て、そういう方たちに限らず、日本語が十分に理解できない人を地域住民として日本人同様に診察してあげたいと思いました。そこで、40歳の時に大きな手術をする外科医の道を辞めて自分の理想の医療を行うべく開業する道を選びました。
もうひとつ、外国人医療に積極的に関わりたいと思った理由がありました。私は北海道で生まれまして、祖父は北海道経済界の大物でしたが、父親は家庭を顧みない放蕩息子でした。そういう環境は私にとって良くないと母親は小さい私を連れて東京に出てきました。東京に来ると、母子家庭なので、とても貧しいです。一方で、北海道に帰ると、裕福な家があります。周りの人間の態度も違います。このことを小さい時から経験していたので、とくに東京にいる時には差別を感じながら生きていました。祖父とは毎年夏と冬の休みは北海道の家に帰る約束をして東京に出てきましたので祖父の言うことを聞いて、跡を継いでも良かったのですが、私は自分で道を切り拓きたかったのです。そのために、医者か弁護士になって、国から免許をもらって生きることができたら、誰も私の家庭のことを言う人は居ないと思っていました。弁護士より医師になるほうが簡単かと考え、医者になりました。授業料は祖父が出してくれました。そうやって、人に言えない苦しい葛藤の時代が慶應高校の時にありました。
以上の経緯から、日本の中で差別されている人たちを見ると、自分と関係ないですよと言えなかったですね。そこで、私は外科医として大きな手術をするキャリアを方向転換して、外国人を含めて地域の人たちのために頑張ろうと思って小林国際クリニックを開業して今に至っています。
─ 小林先生は1990年に神奈川県大和市で小林国際クリニックを開設されました。患者の約3割が外国人で、多い日は40人以上が訪れており、原則断ることなく受け入れていると伺っています。現在クリニックでは英語、タイ語、フィリピン語など6カ国語に対応しており、通訳にかかる費用も全てクリニック負担と伺っています。なぜここまで力を入れて外国人向けの診療体制を整えようと考えましたでしょうか?
小林さん: なぜなら他で受け入れているところがなかったからです。日本政府は国際人権規約と難民条約を批准、後者については医療については内外平等原則すなわち、中長期滞在の外国人であれば日本人と同様の医療を保証せねばならないというスタンスを取っています。ところが、実際には言葉の問題などでこれができていないですね。同じ地域に住んでいて、困っている人がいれば、日本人でも外国人でも分け隔てなく全部受け入れたいというのが私のスタンスです。
─ 小林先生は1991年にAMDA国際医療情報センターを設立されました。AMDA国際医療情報センター(以下AMDAと呼ぶ)は日本在住の外国人からの医療・医事相談に無料電話で対応する組織と伺っています。なぜ設立しようとお考えになったのでしょうか?
小林さん: 1つ目の理由は、1990年小林国際クリニックを開業した日にNHK夜7時のニュースで私のクリニック開業のニュースが流れました。翌日から診察ができないぐらい電話が鳴り止まなかったのです。そのほとんどが外国人と外国人の友人たちからのもので、私たちはこのことであのことで困っていますなどの電話でした。私のクリニックだけでこれらの相談を全て受けることが到底難しいです。であれば、外国人からの医療相談に対して外国語で無料で受ける組織をつくってしまおうと思いました。AMDAを作って外国人からの相談を受けたら、日本の医療制度がこうなっていますよ、あるいは、この症状が出たらここに行けば良いですよというふうに、交通整理してあげると、医療現場のトラブルが減ると考えました。
2つ目の理由は、当時アフリカで紛争が起こっていて、難民が出ると、ヨーロッパや日本から国際医療救援隊が行くわけです。その時に開業医は行けないです。開業医は自分の患者さんを診ることが最優先なので、自分の大切な患者さんを放り出して国際救援に行くことができません。しかし、AMDAの電話無料相談に連動して外国人を診察することで自分の診察室で国際貢献ができるわけです。
以上の2つの大きな理由がありました。
AMDAには日本全国から電話がかかってきます。AMDAでは電話相談の日誌をつけているのですが、例えば、関西の大学病院にベトナム人が入院してきました。困ったことがあって、どうしたら良いかとか、保健所から電話かかってきて、どう対応したら良いかとか、このような相談が毎日たくさんあります。またAMDAを通じて、言葉のできる医師の情報を提供したり、外国人が使える日本の医療制度を説明したり、日本全国の医師や外国人の方々を支援することができます。
─ 小林先生は外国人医療に関する著書もたくさん出版されました。(外国人向けの6カ国語で日本の医療制度を紹介する本、日本の医療関係者向けの外国人医療に関する本など) 。著書を通じてどんなメッセージを社会に届けたいでしょうか?
小林さん: 医療を受ける側と医療を提供する側という2つの側面があります。日本の中で外国人の医療をめぐって色々なトラブルがあります。なぜ日本の病院に行ったら毎月保険証を出さないといけないとか、なぜ美容外科は保険が適用しないとか、分からない外国人患者さんが多いです。このようなことを教えて差し上げることが重要だと思います。同時に、外国人患者さんを診る日本人の医療従事者にも教えて差し上げることが必要です。外国人の物事の考え方や習慣などを啓蒙する活動として本を執筆しています。今まで外国人向けの本を1冊、日本人向けの本を4冊を執筆しました。加えてウェブ出版をさらに2冊執筆しました。合計7冊の著書を書きました。
─ 小林先生は34年間にわたり小林国際クリニックを経営していました。様々な困難や課題に挑んでこられたと思います。心が折れそうな時はありませんでした? 特に印象的なエピソードがありましたら教えていただけますでしょうか?
小林さん: コロナが流行りはじめた頃は、とても怖い病気で、かかったら死ぬのではないかといわれていた時期がありました。あの頃は私は勇気を振り絞り、厚労省の求めに従って、初期の頃から発熱の患者さんを診ていました。私のクリニックはマンションの1階ですので、同じマンションの住人からコロナの患者を診るという危ない行為をするなという電話がかかってきました。さすがに2回目に電話がかかってきた時に怒りましたね。当時は社会が緊急事態でしたから文句があるなら弱い立場のスタッフを電話で脅かすような真似はせず、クリニックまで来て理事長兼院長である自分に言いなさいと応じました。私も感染するかもしれないという危険に向き合いながら、それでも社会の求めに応じて診察しているのに、こう評価されると思った時にかなり心が折れそうになりましたね。ちなみに、コロナが始まってから先月までに私のクリニックで診察したコロナの陽性者は合計約4700人で、一番多い月は約490人です。一般の疾患を診るクリニックとしては恐らく一番多いのではないかと思います。
─ 小林先生は大和市医師会長を10年間務められました。その間外国人医療に関してどのような取り組みをされましたでしょうか?
小林さん: 私は大和市医師会長になる前に、つまり副会長になった時に、大和市医師会の中に外国人医療対策委員会をつくりました。外国人からの医療相談を受けたり、言語別にコミュニティーのお母さんたちに集まってもらって、予防接種や健診のことを話して、なるべく日本人と同じように受けられるものを受けてもらいたいと思って、このような活動をしていました。会長になってから、大和市医師会の中で段々外国人医療のことが大事だとみんなが認識するようになってきて、さらに神奈川県医師会の中でお話をしたり、都立病院の外国人患者受け入れ研修の講師を務めています。現在は日本医師会の外国人医療対策委員会の委員を務めさせていただいたりしています。日本医師会のe-ラーニングの外国人医療の担当も務めています。
─ 小林先生は2018年から日本医師会の外国人医療対策委員も務められています。具体的にどんなお仕事なのか教えていただけますでしょうか?
小林さん: 日本医師会の外国人医療対策委員会は法律の専門家や私のような外国人医療に詳しい専門家や各都道府県医師会の外国人医療担当の先生たちによって構成されています。全員で15〜16名の委員がいます。日本の医療界で外国人医療をめぐって何が問題になっているかについて話し合って、それを解決するためにはどうしたら良いのか具体的な提言を日本医師会の会長にしています。非常に大事な委員会です。そこで決まったことは医師会を通じて日本中の医師に届きます。
─ 現状日本における外国人医療の課題は主にどんなところにあると小林先生はお考えでしょうか?
小林さん: そうですね。言葉の問題や医療費の問題や医療に関する考え方の違いなどの問題などがあります。その中で私は一番気になっているのは、お金の問題です。例えば、外国人観光客が日本に来て、手術を受けたが、お金が払えないという問題が一番気になります。日本の公的保険に加入していない短期滞在の外国人や本人の意思で保険に加入しない中長期滞在の外国人の場合は、病気になったら医療費が払えないリスクが高いですね。自費診療の場合、例えば、盲腸の手術をしました。その値段は保険診療と違って各医療機関が勝手に決めて良いことになっています。A医療機関では10万円かかります、B医療機関では20万円かかります、C医療機関では30万円かかりますというように、各医療機関で価格設定をすることができます。ところが、この価格設定が公表されていない医療機関が圧倒的多数です。医療機関を選ぶ患者さんからすれば、どこが高いか、どこが安いかが分からないです。一般的な医療界の言い方は、保険診療の総額を10割とすると、保険に入っていない患者さんに請求するのは10割になります。その1.5倍を請求する時は15割、2倍を請求する時は20割、3倍を請求する時は30割というふうに言います。保険点数の項目がたくさんあり、一つ一つ自分の病院で決められないので、保険点数を元に計算された値段の何倍を請求するかを決めるのが一般的です。私のクリ二ックは10割請求なので、患者さんが保険に加入しているかどうかに関係なく、最終的に私のクリニックに入ってくるお金は同じです。関東地方の市町村立病院では各々の条例で大体15割と決まっています。東大病院は日本人と中長期に日本に滞在する外国人は10割で、観光客を含む短期滞在の外国人の医療費は30割と決まっています。各々の病院で同じ医療を受けても支払いが異なる可能性があるということです。病気になってどこの病院に行こうかと選ぶ時に、A病院が10割、B病院が20割、C病院が30割という情報が患者さん側に公表されていないところに問題があると私は考えます。救急車に乗ったら、もうひとつの問題があります。なぜなら救急車が運ぶ病院が決まっていて、患者さんの意思ではどうにもならないからです。患者さん本人の意思で自費診療の安い病院を選べないのです。例えば、お寿司屋さんに行ったら、何百円と書いてあるメニューを見て注文しますよね。もし時価と書いてあったら、まず値段を聞いてから注文しますよね。ところが、病院の自費診療については患者さんの側から値段を聞くこともできません。私はこの問題を解決するために、各々の病院の自費診療が何割を請求するかを公表しないといけないと思います。次の日本医師会の外国人医療対策委員会でこのことについて問題提起をしたいと考えています。お金のことはきちんと患者さんに説明して、患者さんが納得してから医療を進めるというふうにしていかないといけないと思っています。この問題は外国人だけの問題ではありません。
─ 小林先生が思い描く外国人医療の理想像を教えていただけますでしょうか?
小林さん: 厚労省は在日外国人医療に関して、外国人受入拠点病院や診療所をつくって、そこに外国人を集めようとしています。私のクリニックも拠点診療所の1つとなっています。しかし、熱が出た場合は、1時間をかけて拠点診療所である私のクリニックに行きたいと思いますか? いつもと同じの近くの医療機関で診てもらいたいですよね。日本の都市圏では徒歩圏内に病院やクリニックがありますので、日本人であれば、1時間かけなくても近くの医療機関を受診できます。ですから、私の理想は外国人も日本人同様に地域の中の医療機関で診察して差し上げることです。これを何とか実現させたいと思っています。そういう手伝いができるのは私たちAMDA国際医療情報センターなのです。
─ 小林先生はこれまでにたくさんの賞を受賞されました(外務大臣表彰受賞、慶應義塾大学医学部三四会奨励賞受賞、東京出入国管理局長より感謝状受賞、公衆衛生事業功労者厚生労働大臣表彰受賞、春の叙勲にて旭日双光章受章など)。ご自身のこれまでのプロフェショナル人生をどのように振り返りますでしょうか?
小林さん: どの賞も嬉しいのですが、私にとって一番嬉しかったのは外務大臣表彰ですね。それから、母校である慶應義塾大学医学部三四会奨励賞ですね。母校に私自身の仕事を認めていただいたので、とても嬉しいです。
─ 小林先生は1974年に慶應義塾大学医学部をご卒業されました。50年にわたるプロフェショナル人生を振り返ってみて、心の支えとなるものと情熱的に取り組む原動力を教えていただけますでしょうか?
小林さん: 自分自身を裏切らないことと小さい頃に精神的に辛い経験をしたことを忘れないことです。病気で苦しんでいる患者さんを見たら、昔自分が体験した気持ちが湧いてくるのです。私が大和市医師会長だった時に、私より年上の女性の先生が末期の癌になって、開業医を辞めて大阪に帰ると言って、私に会いに来ました。話が終わって彼女が席を立った時、思わず、その先生に抱き締めても良いですかと聞いたら、どうぞと言ってくれたので、本当に抱き締めました。医療ってこんなものではないでしょうか。
私は運よく今の仕事を神様からいただいたと思っています。ですから苦しんでいる人や辛い気持ちでいる人の気持ちを抱きしめたいといつも思っています。昨日、奥さんを亡くしたばかりの高齢男性のところに往診に行きました。奥さんを亡くして、外に出る気持ちにもなれないし、車を運転する気持ちにもなれないと言っていたので、来月から私は往診に行くよと伝えていたからです。人がとても困っている時や心が折れそうになった時に、手を差し伸べられる仕事をしていることに誇りを持っていますね。
─ 一番満足感・充足感・やり甲斐を感じる瞬間はどんな時でしょうか?
小林さん: 患者さんからありがとうと言われた時です。それ以外にありません。私は小さい頃から嫌なことをたくさん受けてきたので、涙もろいです。患者さんと一緒に思わず、泣く時もあります。恥ずかしいことに涙が止まらないのです。毎日診療の中に本当にたくさんのドラマがあります。
─ 小林先生の夢を教えていただけますでしょうか?(お仕事の夢とプライベートの夢)
小林さん: 自分の年齢を考えて、いつまで診察ができるのかなといつも思うのです。75歳にもなると、自分の体力に不安を感じます。夜中に一度起きたらもう寝られなくなったり、朝眠くなったりするなど、体力的なことですね。今年の4月から脳神経内科医の長女が小林国際クリニックの院長を継いでくれて、私と同じ気持ちでやってくれそうなので、とても嬉しいです。今後私がクリニックで診察している時間を1日減らして、その時間をAMDA国際医療情報センターのために活用したいと考えています。そうやって自分の体と対話しながら、もう少し長く外国人医療のことに携わりたいなと考えています。
また、タイの若い医学生、看護学生たちに奨学金を出しています。私たち人間はいつか年を取って亡くなりますので、いかに後輩を育てるかだと思います。国が違っても同じです。その国の中で医療を行って、自国の人々に奉仕していただきたいです。次世代の若者を応援することこそがわれわれの役割だと考えています。
─ 小林先生のお好きな言葉を教えていただけますでしょうか?
小林さん: KEIOが好き、いつも心の中にある我が母校。
※聞き手はThe Voice 編集長シャオシャオ
※ゲストの肩書きや記事の内容は全て取材当時(2024年7月)のものである。
編集後記
小林医師の50年にわたるプロフェショナル人生において心の支えとなるものは自分自身を裏切らないことと子どもの頃に精神的に辛い経験をしたことを忘れないことだとおっしゃいました。
人がとても困っている時や心が折れそうになった時に、その人の気持ちを共感し、手を差し伸べられる仕事をしていることに誇りを持っているともおっしゃいました。
私たちも他人とのつながり、絆、優しさを心がけながら仕事や勉強をしていきたいですね!
そして、人の気持ちを共感するということはとても大切だと思いました。
外国人を含め毎日たくさんの患者さんを診察されている小林医師は、毎日たくさんの涙あり笑いありの人間ドラマを目にしています。このように34年以上にわたり地域の住民のために献身的にお仕事をされている小林医師を尊敬してやみません。
小林医師、どうもありがとうございました!
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The Voice編集部 thevoicetmc@gmail.com