2024年2月 中田 卓也さん
(ヤマハ株式会社代表執行役社長)
為さねば成らぬ何事も
─ 中田さんはどんな少年時代を過ごされましたでしょうか? 音楽が大変お好きだと伺っていますが。
中田さん: 幼稚園の頃にヤマハ音楽教室に通っていました。自分から行きたいと言ったわけではなく、親が行きなさいと言って通わせました。その理由はシンプルで、当時、兄の音楽の成績が良くなかったため、弟の私もそうなるのではと心配し、ちょうど家の近くに開校することになったヤマハ音楽教室に私を連れていったわけです。それでも、それが私にとっての音楽の原体験になったことは間違いありません。少年時代の私は、本当は野山を駆け登ったり、模型を作ったりする方が好きでした。そんな少年でしたね。
─ なぜ慶應義塾大学法学部を選ばれましたでしょうか?
中田さん: 正直に言いますと、まず「東京に行きたい」という気持ちがありました。地元の岐阜の周辺よりも東京に行って、色々なことを経験してみたいというのが一つ目ですね。二つ目は、兄がたまたま早稲田に行っていまして、早慶戦の話などをよく聞いているうちに、やはり早稲田や慶應が良いなと漠然と思うようになりました。最後の決め手は数学です。私は子どもの頃から数学が好きだったのですが、慶應の法学部法律学科の入学試験は数学で受験することができたので、これは有利になると考えたからです。
─ 大学時代はどんなことに熱中して取り組まれましたでしょうか?
中田さん: 一番熱中したのは、シンセサイザーで音楽を作ることですね。高校まではバンドでギターを弾いていて、大学入学後もいくつかのサークルを見て回りましたが、みんな本当に上手で、私の出る幕はありませんでした(笑)。当時、冨田勲さんという有名な作曲家がいて、私が高校生の頃だと記憶していますが、日本人初のグラミー賞4部門にノミネートされるなど話題になっていました。それで私もシンセサイザーという楽器に興味を持ち、まずは安価なシンセサイザーを買って、見よう見まねで音楽制作に乗り出しました。自分なりにクラシックをアレンジしたりして、楽しんでいました。
その頃はまだ、自分が将来ヤマハに入社することになるとは思っていませんでした。幼稚園の時からヤマハ音楽教室に通い、今、ヤマハ株式会社の社長とヤマハ音楽振興会の理事長を務めていると思うと、何だか不思議な感じがします。
─ 就職先としてヤマハ株式会社を選ばれた理由を教えていただけませんか?
中田さん: 音楽が好きで、模型や日曜大工など物作りも大好きだったので、その両方を活かせるヤマハを選びました。そういう意味では、私にとってヤマハ株式会社に入社したのは極めて自然なことでした。
─ 中田さんご自身はどんな楽器をよく弾きますでしょうか?
中田さん: 色々な楽器を弾きますが、一番長く演奏してきたのはギターです。鍵盤楽器も経験がありますが、最近はサクソフォンやトランペットなど、ありとあらゆる楽器を一通りやってみたいと思っています(笑)。ヤマハは総合楽器メーカーなので、ギターや鍵盤以外にも様々な楽器を製造しているのですが、ある時、管楽器部門の社員から「管楽器にもぜひ挑戦してほしい」と言われたのです。当社にはヤマハ吹奏楽団という、恐らくアマチュアバンドとしては日本一のバンドがあり、その団員たちに教えてもらいながら懸命に練習して、世界中の従業員が参加する社内イベントでサックスのサプライズ演奏を披露したこともあります。
─ 中田さんは音楽以外に大好きなのが模型作りだと伺っています。音楽と模型作りとの間で何か共通するものがありますでしょうか?
中田さん: どちらも、頭の中でイメージしたものが形になっていくプロセスがとても面白いですね。模型も音楽も、手を入れようと思うと、いくらでも手を入れられます。作っていくうちに少しずつ、最初にイメージしたものに近づいていくのですが、途中で新たなアイディアが浮かぶと、また工夫するところが出てきます。そういうことを色々と考えて、アイディアをどんどん組み合わせて形にしていくのが本当に楽しいんですよ。
ただ、模型作りには終わりがありません。これまでにプラモデルをいくつも作ってきましたが、完成したといえるものはまだ一つもありません。理由は、自分の中でまだ終わりになっていないからです。多分絵を描く方も同じではないかと思いますが、自分からやめない限り、いくらでも手を入れられます。音楽も同様で、作曲家は作品を出さないといけないので、世に出しますけれども、後から作品に手を入れるケースも多々ありますよね。永遠に完成しない、ずっと改善の余地がある。それが音楽と模型作りの共通点であり、面白いところだと思います。
─ 中田さんは4歳で音楽と出会い、ヤマハ音楽教室に通い始めました。それから61年が過ぎました。この61年間を振り返ってみて、どんなお気持ちを感じていますか?
中田さん: 音楽の面白さに関して言えば、ヤマハ音楽教室に通っていた頃より、今の方が遥かに強く実感しています。4歳の頃からずっと音楽に関わり続けてきましたが、ある時から、「音楽には人々を幸せにする力がある」と思うようになりました。最近はむしろその思いが強くなってきています。例えば災害時などには、人々は音楽で心を励ましたり癒したりしていますよね。
─ 4歳の頃からヤマハ音楽教室に通い始めた時に、ご自身が60年以上にわたりヤマハに関わり続けてきたことを想像できましたでしょうか?
中田さん: それは全く想像できませんでしたね(笑)。正直に言って、幼稚園の時は音楽教室をやめたくなる時がよくありました。弾いている間は楽しいのですが、当時、その音楽教室に通っていたのは女の子ばかりで、男の子は私ともう一人だけでした。同じ地域の男の子たちはみんな野球などのスポーツに夢中になっており、私も彼らに加わりたいと思っていました。
─ 2010年から2013年までの3年間、中田さんはヤマハ・コーポレーション・オブ・アメリカの社長を務められていました。新卒でヤマハにご入社されてからずっと浜松に勤務されていたと伺っていますが、初の海外赴任、しかも価値観も文化も商習慣も大きく異なるアメリカへの赴任とお聞きになった際は、どんなお気持ちでしたか?
中田さん: 私が入社以来浜松から一度も出たことがないのは、当時社内で結構知られていて、先代社長や先々代社長が「海外を知らないとダメだ」と言っているのも聞いていました。50代になって、自分は海外赴任の機会を逸してしまったと思っていましたから、アメリカ赴任の打診があった時には、その場で「喜んで行きます」と伝えました。
もちろん、頭の中では、「ついに来ちゃったよ」とも思いました(笑)。当時、社内では、私の欠点は英語だとよく言われていましたし、実際、中学校から10年間、学校で英語を習ったレベルだったので、ほとんどしゃべれませんでした。正直に言いますと、海外から来たお客様とはあまり話さないようにしたりして、英語から逃げていた面もあったと思います。ですから、赴任が決まってからの3カ月間は必死に英語を勉強しました。この時の勉強は本当に大変でしたが、一方で、ありがたい話だとも思っていました。当時の私は本社でかなり重要な仕事を任されていたのですが、上司から「こちらのことは任せてアメリカに行ってこい」と言ってもらえたのです。違う世界を見るチャンスをいただけたことに感謝しつつ、一方でこれから大変だろうなとも思いつつ、アメリカへ行きました。
─ 3年間アメリカ赴任の期間中に特に印象的だったエピソードを教えていただけませんか?
中田さん: 色々ありますが、とにかくアメリカという国は広い、全てにおいてスケールが大きいという点を実感せざるを得なかったですね。道幅が広く、交差点ごとにショッピングモールがあるのではないかと思えるほどの店の多さで、日本でこんなにたくさんショッピングモールがあったら、全部潰れてしまうのではないかと思ったものです。街だけでなく、さまざまな点においてとにかくスケールが大きいということを感じました。
─ 中田さんは2013年にヤマハ株式会社の代表取締役社長にご就任されてから現在までちょうど10年が経ちました。アメリカでのご経験が後に経営トップとして会社全体を動かしていく上でどのように役に立っているとお考えでしょうか?
中田さん: まずは、やはり「多様性の尊重」ということですね。実際、当社の米国販社で仕事を回しているのは現地の人たちです。もちろん日本人駐在員も何人かいますが、実際のビジネスを担っているのはアメリカ人です。アメリカでわれわれの製品を買ってくれるのはアメリカ人ですから、彼らに何が響くのか、本当のところは日本人には分からないのです。そういう意味で、もっとグローバルな会社になるには、現地の人たちに活躍してもらう方法や、会社の多様性のあり方を真剣に考えていかなくてはなりません。
もう一つは、視点によって物の見え方が違うということです。私がアメリカに行っている間に、1ドル80円を切るような円高の時期がありました。為替の影響が事業に与えるインパクトを痛感しましたね。例えば、100ドルの製品があったとして、1ドル100円の時には1万円をもらっていたのに、円高で1ドル80円になると、本社の売上としては8千円になってしまうわけです。日本円では儲けが減るので、日本側は「なんでお前らはそんなに安く売るんだ」と考えてしまいますが、アメリカ人からすると、「あなたたちが勝手にコストを引き上げただけじゃないか」と思うでしょう。円高になろうと、アメリカ人にとっての100ドルの価値が変わったわけではないのです。物の見え方は、見る側の視点によっては真逆にもなるのだとよく分かりました。両方の事情を理解しないと、問題は解決しないということです。
この二つが、私がアメリカで得た貴重な学びですね。
─ ヤマハ株式会社の最高経営責任者として過ごしてこられたこの10年間は、さまざまな挑戦や困難に挑んでこられたと思います。中田さんを突き動かす原動力はどこにありますでしょうか? そして、常にエネルギッシュで、オープンマインドでお仕事に取り組む精神力をどのように養っていますでしょうか?
中田さん: そうですね。性格的なものがあると思います。負けず嫌いと好奇心の二つが私のベースです。どんな物に対しても好奇心が湧きますし、負けず嫌いに関しては、人より自分に負けるのが嫌なんです。もう一つ、昨日と同じことをするのも嫌ですね。少しでもいいから何か進歩させていきたいし、次々と新しいことを打ち出していきたいと思っています。とにかく同じことの繰り返しが嫌で、それが私の原動力になっています。
社長のバトンを受け継いだ時から受け渡す時まで、ヤマハという会社を少しでも良くしていきたいと思ってやってきました。もしそれができなかったら、私にとっての負けだと思います。昔は利益が上がれば良い会社と言えたのですが、今は業績だけでなく、全てのステークホルダーを満足させなければなりません。最たるものはお客様です。お客様がいなければそもそもビジネスができません。その次に、従業員、地域、環境などがあります。これらのステークホルダーにとってヤマハという会社は価値を生み出しているかどうか。もし生み出せなかったら、それは負けを意味します。負けず嫌いな私は、それを原動力にして仕事に向き合っているんです。
先程、私のことをエネルギッシュと言ってくださいましたが、意識してエネルギッシュにしているわけではありません。振り返ってみると、自分には仕事に向かう熱量があったのだと思います。
─ ヤマハにご入社されてから40年以上経ちますが、その間挫折にあったり、心が折れそうな時はありませんでしたか?
中田さん: 心が折れそうな時はしょっちゅうありますよ(笑)。社長になってからも、そのようになった時はいっぱいありました。でも、折れそうでも折れたことはありません。本当に苦しい時はありましたが、性格的に、それも何とか楽しもうとしてしまうんです。ゲームをクリアした感じと似ているかもしれませんが、何かを達成した時の達成感がエネルギーになります。色々な経験をしてきた中で、今は苦しいけれども、これさえやってしまえば、「やった」という感覚を味わえることが分かってきました。困難にぶち当たっても、困難が大きいほど、その後の達成感も大きいと思えるのです。多分、ポジティブシンキングなんでしょうね。
─ 中田さんは歴史の本が大変お好きだと伺っており、とりわけ長編小説「徳川家康」は20代の頃から何度も読まれているそうです。徳川家康の教えがこれまで42年間にわたる中田さんのプロフェッショナル人生にどんな影響を与えましたでしょうか?
中田さん: そうですね。とにかくとことん考える、一つのことに対して考え抜くことの大切さを学びました。本質はどこにあるのかを考え抜き、自分一人で動くわけではなく、人を動かして物事を達成していくことに意味があると知りました。山岡荘八の『徳川家康』の中で、家康はよく「腑に落ちたか?」という表現を使っているのですが、得心がいっていないものには力が出てこないんです。納得感が得られれば、後は放っておいてもきちんとやってくれる。ですから、私も一緒に働いている仲間たちが納得しているかどうかということをとても大事にしています。
もう一つは、どれだけ多くの人々を幸せにできているかです。どれだけの人たちを幸せにできたかによって、その人が成功したかどうかが決まるし、その人の輝きも決まると徳川家康は言っています。これはわれわれヤマハのミッションと同じです。われわれも「世界中の人々のこころ豊かなくらし」の実現を目指しているので、家康の言葉には心から共感しています。
─ 中田さんはかねてから「楽器は人間必需品」とおっしゃっています。世界最大の総合楽器メーカーとしてヤマハはこれまでに日本のみならず、世界中の人々に音楽の楽しさ、心の豊かさを提供してきました。
これから音楽や楽器を通じてどんな世界をつくっていきたいとお考えでしょうか? ヤマハが描く青写真を教えていただけませんか?
中田さん: 先程も申し上げましたが、私たちは世界中の人々がこころ豊かなくらしを送るお手伝いをしたいと思っています。生きていく上では楽しいことばかりではなく、辛いことや苦しいこともたくさんありますが、音楽には人の心を癒す力があります。その音楽の力で、世界中の人々にこころ豊かな瞬間をお届けしたい――これはヤマハの変わらぬミッションです。
─ もしもタイムマシンに乗って、少年時代に戻れるとしたら、今と同じようにヤマハへご入社されて音楽や楽器に関わる人生を歩みますでしょうか? それとも、違う分野にも挑戦してみたいでしょうか?
中田さん: この人生の経験値が頭に残っているかどうかによって答えが違ってきますね。もし、これまでの記憶が残っていなければ、必然的に同じ道を選択すると思います。逆に、もし記憶が残っていたら、自分は同じことをやりたくない性分なので、違う道に進むと思いますね。機能を追求できて、さらに、情緒的なもので幸せを生み出せる仕事があれば、何でもチャレンジしてみたいと思います。音楽以外なら、例えば家具や車、家などが当てはまると思います。
機能的な価値と情緒的な価値の両方を兼ね備えた商品は多くの人に愛されると思います。機能的な価値だけに偏った商品はコモディティ化が速く、値段競争になりやすいのですが、理屈では説明することが難しい情緒的な価値を伴うと、途端に、値段競争になりにくい商品に昇華します。
先日、ジャパンモビリティショーが東京で開催されましたが、当社はヤマハ発動機さんのブースに大規模な出展協力を行いました。人々のライフスタイルがどんどん変わっていき、心の豊かさというものが一層重要になる中で、楽器のヤマハとモビリティのヤマハ発動機さんが共同で価値提案を行ったのです。楽器のフォルムや演奏の美しさ、ブースの雰囲気や世界観などを通して、両社が紡ぎ出す情緒的な価値をお客さまに体感いただけたと思います。
─ 私たち人間の生活様式が時代とともに常に変化していくものと思います。2030年〜2050年頃はどんな楽器が流行ると予想されますか?
中田さん: 未来のことはわかりませんが、恐らく、あまり変わらないのではないかと思います。今は2023年(取材当時は2023年11月)ですが、今から10年〜30年遡っても、楽器そのものはあまり変わっていませんよね。もちろん電子楽器などはかなり進歩しましたが、20年前の楽器と今の楽器を比べた時に、本質的なところで大きく変わったものはないと思います。
では、20年前と今とで何か違うかというと、楽器を使った表現の仕方、そして、フィーチャーされる楽器の種類が違うと思います。何らかの必然性によって楽器の組み合わせが変わり、その特徴を生かした音楽が出てくる。それがたまたま社会で受け入れられて、急にブレイクするようになる。こんなふうに、時代の変化に伴って何が出てくるか予想することは難しいのですが、むしろ、音楽や楽器の価値は時代が変わっても不変ではないかと思っています。
今、われわれが目指しているのは、機能や技術の力で、「いつでも・どこでも・誰でも」音楽を楽しめるようにすることです。
「いつでも」においては、例えば楽器の音量コントロールがあります。昔の楽器の音は小さかったのですが、それをどんどん大きくしてきました。今では逆に、一般家庭に合わせて音量を小さくしたり、音を消してヘッドフォンで聞いたりできるようになりました。サイレントピアノをご存知の方は多いと思いますが、他にもさまざまな楽器のサイレントシリーズがあります。このようにいつでも気軽に演奏できるようにするための技術は、確実に進化していると思います。
次に、「どこでも」というのは、同じ空間にいないとできなかった合奏が、今は離れていてもできるようになったことが挙げられます。当社は、人々が集まることができないコロナ禍の間に、離れた場所にいる人たちがリアルタイムに合奏できる「SYNCROOM」というアプリケーションをリリースしました。特殊な環境が必要にはなりますが、離れ離れになった昔の友人と何十年ぶりのセッションを楽しんだという感想をたくさんの方々からいただきました。
最後に、「誰でも」においては、障がいがある方にも音楽を楽しんでいただけるようサポートする楽器などが挙げられます。リコーダーは通常10本の指で演奏しますが、当社は手の不自由な方々のために片手で演奏できるリコーダーを開発しました。このように、様々な事情を抱えた人々が皆、誰でも気軽に楽しめるよう、新しい楽器をどんどん出していきたいと思います。
─ 音楽文化そのものが今後どのように変化していくと予想されますでしょうか?
中田さん: 音楽文化はなくならないと思います。演奏する側、鑑賞する側と楽しみ方は分かれていますが、今後AIテクノロジーが進むと、ここの境目がなくなるかもしれません。楽器の演奏にはそれなりの練習が必要ですが、もうすでにAIが演奏をサポートする技術がどんどん生まれています。実際にわれわれが開発した鍵盤楽器には、指一本でメロディーを弾くと、AIが伴奏を奏でてくれるサポート機能が搭載されているものもあります。AI技術に限らず、われわれは今後も「いつでも・どこでも・誰でも」楽しめる音楽文化を、様々な形にして提案していきたいと思います。
─ 中田さんの夢を教えていただけませんか?(お仕事の夢とプライベートの夢)
中田さん:
仕事の夢は、一人でも多くの方に音楽の楽しさを分かっていただき、実際に音楽に触れていただき、こころ豊かなくらしを送っていただくことです。そのためのお手伝いができるヤマハでありたいと思っています。ですから、社員には色々なことにチャレンジし、ヤマハブランドをさらに輝かせてほしいと思います。よく言うのですが、今、当社で働いている従業員が、自分たちの子どもにも当社で働いてほしいと思えるような会社になることですね。
あと、私は今はほぼプライベートがない状態ですので、プライベートの夢は特にありません。
─ 中田さんはヤマハ株式会社の最高経営責任者として大変ご多忙を極める日々をお過ごしのことと思います。普段は何をしてリフレッシュしていますか? ご趣味は何でしょうか? 休日の過ごし方も教えていただけますか?
中田さん: リフレッシュするためには、やっぱりギターを弾くことが多いですね。また、運動不足解消のためにゴルフをするようにしています。ヤマハは楽器・音響機器メーカーのイメージが強いですが、実はゴルフクラブも販売しています。ゴルフ担当の社員たちが生み出した最新のクラブでラウンドして、ヤマハの体験価値を味わうようにしています。だた、本当にリフレッシュできているかというと、なかなかスコアが上がらないのでちょっと怪しいですね(笑)。
休日にも色々な音楽のイベントがあるので、仕事の一環で出かけて行くことが多いです。ヤマハ吹奏楽団の演奏会、当社が主催するコンサートなど、公式にヤマハがやっているイベントには社長として顔を出すようにしています。
また、コロナの前は2カ月に3回ぐらい海外出張していて、アメリカ、ヨーロッパや、工場のある中国、マレーシア、インド、インドネシアなど世界中の拠点を回ったり、色々な展示会に行ったりしましたので、土日はほとんど移動時間でしたね。
─ ゴルフ以外にお好きなスポーツはありますでしょうか?
中田さん: 今は特に何もしていませんが、30年ぐらい前には浜名湖でウィンドサーフィンをやっていました。体を動かすのが好きでしたし、当時から好奇心が向く分野であれば何でも挑戦していました。
─ もし今から新しいスポーツを1つ始めるとしたら、何を選びますか?
中田さん: 弓道(和弓)をやってみたいですね。鍛錬を積む必要があり、奥深そうなところもあり、面白そうだと思います。
─ 中田さんのお好きな言葉を教えていただけますか?
中田さん: 為せば成る、為さねば成らぬ何事も
※聞き手はThe Voice 編集長シャオシャオ
※ゲストの肩書きや記事の内容は全て取材当時(2023年11月)のものである。
編集後記
中田さんはスポーツがお得意で体を動かすことが大好きです。
音楽や模型作りなど永遠に完成しない、ずっと改善の余地があることも大好きです。
また、中田さんは機能的価値に加えて、人々の気持ちと心を動かす情緒的価値を生むもので幸せになれるものを今も将来も追求していきたいそうです。
チャレンジ精神旺盛、負けず嫌い、明るく前向き、変化を喜んで受け入れる柔軟なマインドセットは経営トップとしてヤマハ株式会社を率いていらっしゃる中田さんの原動力であります。ヤマハは世界最大の総合楽器メーカーとして、これから先もずっと音楽がもたらす楽しみ、喜び、感動、こころの豊かさを広く伝えていき、世界中の人々のウェルビーイングに貢献していくことは間違いありません。
もし新しいスポーツを始めるとしたら、弓道(和弓)にチャレンジしたいと中田さんはおっしゃっています。好奇心が向く分野であれば何でも挑戦したいそうです。常に新しいことに興味や関心を示し、積極的に学び、自らの可能性を切り拓いていく中田さんのお言葉はとても印象的でした。
中田さんはヤマハで働いている従業員が自分の子どもにもヤマハで働いてほしいと思える会社にしたいとおっしゃっていまして、ヤマハのお客様だけでなく、従業員をはじめとするすべてのステークホルダーにとって良き会社となるように日々全力を尽くされています。
中田さんのお好きな言葉は、為さねば成らぬ何事も(何事も強い意志を持ってやれば必ずできる)です。これは若い世代へのメッセージでもあります。物事を成し遂げるのに一番必要なのは、鉄の意志です。私たちも強い意志を持って目の前のことに取り組んでいきましょう。
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The Voice編集部 thevoicetmc@gmail.com